INICIAR SESIÓN「理解はしてたけど恋〈レン〉ちゃん、本当に誰にも見えないんだね」
* * *今日は実家に戻る日なんだ。よかったら恋ちゃんもついてくるかい?
そう聞かれた恋は、無言でうなずいたのだった。「僕以外誰からも認識されない存在。まるでSFだね」
自分にしか見えない存在。そんな恋と外で話をしていると、独り言を言っているようにしか見えない。
それはかなり怪しい。そう思い、蓮司〈れんじ〉はスマホを耳に当て、通話をしている風を装い恋に話しかけていた。しかし恋は蓮司の顔を見ることなく、ずっとうつむいていた。
そんな恋に苦笑しながら、蓮司は頭を掻いた。* * *
「付き合ってないって、どういうことですか?」
蓮司から聞かされた、衝撃の事実。
この時間に来たのは、自分と蓮〈れん〉が幸せに暮らしてる姿を見る為だった。 付き合って、そしてキスをして。 恋の中で、蓮に対する想いは暴走寸前にまでなっていた。 蓮のことが好きすぎて、おかしくなりそうだった。 そしてきっと、蓮も自分のことを好きな筈だ。 だから今日、キスしてくれたんだ。 自分のことを大切にする、嫌がることは絶対にしない。 そう言ってくれた蓮が、自分からキスしてくれた。 それはある意味、誓いのようなものだったのだろう、そう思っていた。私は蓮くんのことが好きだ。これからもずっと一緒にいるんだ。
そう信じて疑わなかった。
それなのに今、二人が別れたことを告げられたのだ。「ねえ蓮司さん、本当なんですか? 私たち、10年後には付き合ってないんですか?」
あまりのショックに、恋が涙を浮かべて訴える。
「まあ……恋ちゃんからしたらそうなるよね。付き合い出したばかりなんだし」
タオルで涙を拭きながら、恋が「嫌だよ、なんでそんなことになってるのよ」とつぶやく。
「恋愛ってね、気持ちだけじゃ続かないものなんだ。例えば今の恋ちゃん、過去の僕のことが好きなんだよね。僕も好きだった。
でもね、その『好き』がどれくらいなのかは、本人にしか分からない。そしてその度合いが同じなんてことは、決してないんだ」「どういうことですか」
「僕が花恋〈かれん〉のこと、10好きだとしよう。でも、花恋が僕を好きな度合いは8。そうすると、どうなると思う?」
「……」
「人である以上、その違いはどうしても起こる。環境も違えば考え方も違うからね。そしてそれに気付いた時、10の人は怒ってしまう。自分はこれだけ好きなのに、どうして相手はそうじゃないのかって」
「でもそれは、感覚の問題じゃないんですか? 好きって気持ちは本当だし、その感覚はお互い理解し合えば」
「それが難しいのが人間なんだ。だってみんな、個性があるんだから。考え方が違うんだから」
「そんな……じゃあ想いの度合いが違うから、二人は別れたんですか?」
「いや、今のは一つの例えとして言ったんだ。それくらい恋愛は難しいっていう意味で」
「……別れた理由、聞いてもいいですか」
「理由、ね……」
「私たち、子供の頃から想い合ってきました。それは蓮くんも言ってくれました。
同じ時間を過ごして、考え方や価値観も共有してきました。勿論蓮司さんが言ったように、人間だから違いはあります。それでも私たちは、その違いも受け入れて一緒になることを選んだんです。そしてきっと、これからもずっと、同じ景色を見ながら生きていくんだって……そう思ってたのに」「別れるなんて、思ってもみなかった」
「だから知りたいんです。何があったのかを」
「特にないよ」
「え……」
「恋ちゃんが言ったように、当時の僕も同じだった。僕が見たい景色を、花恋も見てくれる。僕も花恋の見てる景色を見てみたい、そう思ってた」
「だったら」
「でも、現実は違ってた。そう思っていたけど、僕たちは全く違う方向を向いていたんだ」
「だからそれが知りたいんです。何がきっかけで」
「恋ちゃん。恋ちゃんが言ってることってね、ドラマやマンガの影響があると思うんだ」
「どういうことですか」
「好き合ってる二人が別れてしまった。きっととんでもないことが起こったに違いない、そんな風に思ってるよね」
「はい、思ってます」
「物語ならそうだと思う。そうでなかったら、お客さんが納得してくれない。僕だって自分の小説で、そういうイベントの時は必死になって考えてた。
でもね、これは物語じゃない、現実なんだ。僕たちが生きてるこの世界ってのはね、そんなにドラマチックなことばかり起こる訳じゃないんだ」「現実はそうじゃないってことですか」
「うん。僕らはお互いに、考え方や感じ方の違う他人なんだ。幼馴染だから、普通の人に比べたらそのハードルは低いかもしれない。でもね、突き詰めて言えば、僕たちは違う個なんだ。
人は相手を思いやる気持ち、尊重する優しさと同時に、思い通りにしたいっていうエゴも持ち合わせているんだ。初めはそれも新鮮に映る。こんな考えもあるんだ、いいなってね。でも付き合いが長くなっていく内に、少しずつそれがストレスになっていく。どうしてこうするんだ、自分に合わせてほしいって」「……よく分かりません」
「そうだね。ごめんね、どうしても理屈っぽくなっちゃって」
「蓮司さんには別れた理由が分からない、そういうことですか」
「分からないとまでは言わないよ。考え方や価値観の違い、小さなすれ違いが積もり積もって、少しずつ僕らの心は離れていった。特にイベントがあった訳じゃない。いつの間にか連絡を取り合う回数も減っていって、別れる方向に向かっていったんだ」
「そんな……」
「自然消滅って言い方が、一番合ってると思う」
「嫌、嫌だよ……ずっと蓮くんと一緒にいたいのに……理由がある訳でもなく、いつの間にかって……そんなのないよ……」
恋の大きな瞳から、また涙がこぼれ落ちていく。
そんな恋を穏やかに見つめながら、蓮司は「ありがとう。それから……ごめんね」そう言って微笑むのだった。「俺は恋愛というものを、よく分かってなかった。と言うか、人が他人に対して何を思うのか、それが理解出来なかった」「どういうことかな」「自分にとって一番大切なのは自分、それ以外のことに興味がなかったんだ」「でも君は、いつも周囲に気を配ってたじゃないか」「それも自分の為なんだ。自分が心地よくいられる環境を作る、その為の行動にすぎないんだ。 だから俺はいじめを許さなかった。かわいそうだとか、正義感だとか、そんな理由じゃない。人が人を貶める、そういう場所にいたくなかったんだ」「動機が何であれ、それは結果として残ってる。君に救われた人たちは皆、君に感謝してると思うよ」「それでも俺は、自分の行いを正しいと思ってなかった。根本にあるのが自分の為、利己だからだ。 でも俺は出会ってしまった。自分のことより気になってしまう、そんな人に」「……」「赤澤と出会って、俺の人生は一変した。利己を追求してた筈の俺が、気が付けばいつも赤澤のことを考えていた。自分にとって嫌なことでも、赤澤が笑顔になるならそれでいい、そんな風に思うようになっていった」「君にとっての初恋、だったんだね」「そして俺は気付いた。他人のことに興味を持っている自分に。こいつは何を考えているんだろう、今楽しいのだろうか。どうすればこいつは笑ってくれるのだろう、そんな風にな。 それは俺にとって、初めての経験だった。気が付けば、俺の世界は変わっていた。広がっていた」「そういう風に感じれる君は、やっぱりすごい人だと思う」「赤澤に感謝したよ。彼女は俺に、世界がこんなにも温かくて優しいんだと気付かせてくれた。そして俺は……赤澤に恋をした」「……」「気付いた時にはもう遅かった。何をしていても赤澤のことを考えていた。自分の人生になくてはならない存在、そんな風にさえ思った」「君みたいな人にそこまで想われて、花恋〈かれん〉は幸せだと思うよ」「でも
「感想が正しいかどうか、そんなことはどうでもいい。お前には誰にも見えていない世界が見えている、そう思ったんだ。 俺も見える人間だと思ってた。おかげでクラスでも、みんながどう思ってるか、どう望んでるのかを感じることも出来たし、それなりに信頼もされていた」「君の洞察力の深さ、誇っていいと思うよ」「でもお前には、俺が見えないものまで見えていた」「買いかぶりすぎだよ。僕にそんな能力」「いいや、あるね。現に今だって、お前はずっと考えてる筈だ。俺が何を言いたいのか、何を望んでるのか、何に悩んでるのかって」「それは……いやいや、普通のことだろ? みんなそうして相手のことを考えて、関係をいいものにしようと思って」「そう言えるお前だから、俺は勝てないと気付いたんだよ。今お前、みんなって言ったよな。でもな、黒木。人ってのは、そこまで相手のことを考えて生きてる訳じゃないんだ。どちらかといえば、どうやって自分の気持ちを伝えようか、そればかり考えてるものなんだよ」「そう……かな」「ああそうだ。それに普通の人間は、お前みたいな生き方をしてたら疲れてしまうんだよ。人のことばかり考えて、言葉の裏を探ろうとして、本心を見抜こうとして」「……」「俺と一緒に、飯を食いに行くとする」「飯……う、うん」「俺は肉が食いたいと言った。お前は蕎麦がいいと思っていた。どうする」「……肉を食べに行くと思う」「だろ? でもな、普通は自分が食べたいものを勧めるんだよ」「そうなのかな」「ああそうだ。かくいう俺もそうだからな。そしてお前は思う。蕎麦が食べたかったけど、相手が嬉しそうだからこれでよかったって」「……確かにそうかも知れない。蕎麦を食べられたとしても、僕はずっと気になっていると思う。本当にこれでよかったのか、肉にした方がよかったんじゃない
夕刻。 蓮司〈れんじ〉は近所の河川敷に来ていた。 * * * 突然の電話。「話があるんだけど、付き合ってくれないか。場所を言ってくれたらそこまで行くから」 そう言ってきたのは大橋だった。 旧友と久しぶりの再会。 だが蓮司にとって、それは余り歓迎する物ではなかった。 同窓会も欠席した。 その時も電話で話した。どうして来れないんだ、仕事か? 何なら日程を変えてもいい、そう言われたが断った。 今の自分を見てほしくない。 今の自分には、何一つ誇れるものがない。 そんな自分が、旧友たちとの再会を楽しめる筈もない。 それに花恋〈かれん〉も気を使うだろう。 クラスの誰もが、自分と付き合っていたことを知っている。 別れたとなれば、色々と聞かれるだろう。 放っておいてほしい。今は波風立たない環境で、静かに暮らしたい。蓮司の願いはそれだけだった。 しかし蓮司は今、堤防の石段に座り、川を見つめていた。 花恋の家に泊まった恋〈レン〉から言われた言葉。「花恋さん、大橋くんにまた告白されたみたいです。今日もその……会う約束をしているようです。ひょっとしたら、告白の返事をするのかもしれません」 予想は当たったようだよ、恋ちゃん。 きっと大橋くんは、けじめをつけようとしているのだろう。 どんな答えでも構わない。ただこれで自分も、少しだけ前に進めるような気がする。 花恋と別れて三年になる。 あんないい子が、三年も一人でいる。おかしな話だ。 世の男どもは、一体どこに目をつけているんだ? そう思っていた。 しかし今、ようやく想いを告げる男が現れた。 大橋くんはいい人だ。彼ならきっと、花恋のことを幸せに出来るだろう。 自分のせいで無駄にしてしまった10年。彼ならばきっと、埋め合わせて余りある幸せを与えることが出来る
「いつまでも可愛い蓮司〈れんじ〉くん、なんだよね」「……あの子は小さい頃から、本当に変わった子だった。智弘はあんなに社交的なのに、全然周囲に溶け込もうとしなくて、いつも一人だった。寂しくないの? って聞いても、『寂しくないよ。本を読んでると楽しいから』って言って」「親としては、そんな蓮司くんが心配だった」「でもあの子、本当に優しい子に育ってくれた。誰に対しても気を使っていたし、家の中でもいつも空気を読んでた。 みんなが心地よく感じれる世界を作ろうとしてた。例えそれで、自分が傷つくことになるとしても」「そうね。蓮司くん、本当に優しいから。だから私も、花恋〈かれん〉と仲良くしてくれて嬉しかった」「私だってそうよ。恋〈レン〉ちゃん、そんな蓮司といつも一緒にいてくれて……私ね、小さい頃に言ったことがあるの。『蓮司のことをよろしくね』って。恋ちゃんも真面目な子だから、私の言葉をずっと守ってくれてるのかなって思ってた」「まぁちゃん、それは深読みしすぎ。子供がそんなこと、いちいち覚えてる訳ないでしょ。仮に覚えていたとしても、思春期に入っちゃったらそんな約束、反故にするに決まってるじゃない」「でも恋ちゃんは違った。どちらかって言ったら、蓮司の方が恥ずかしがって逃げてた。中学に入ってからも、家で一緒に宿題したりしてくれてたし」「もうあの頃には花恋、蓮司くんを好きだったんだと思う」「でも蓮司、あの頃学校でいじめを受けてて」「そうね……いじめって、どうしてなくならないのかしら」「世の中、臆病な人ばかりだから」「……」「みんな怖がってる。人に誇れるものがない、そんな自分はこの世界で価値がない。思春期の子供なんだから、特にそう思うんだと思う。 だから自分より弱い者を見つけて攻撃する。攻撃することで、自分がその人より強いことを誇示しようとする。自分の方が価値がある、そう自分に言い聞かせる。そして蓮司みたいに社交性のない人間
「ほんっと、私って馬鹿だ」 そう言ってうなだれる恋〈レン〉を見て、蓮〈れん〉は苦笑した。「なんで出る時間、確認しなかったかな」 * * * 蓮司〈れんじ〉と花恋〈かれん〉。二人をまた付き合わせる。 そう決めた恋は、蓮を連れて花恋の家に向かった。 説得するなら花恋さんからだ。自分のことは自分が一番分かっている。 それに今は蓮くんも一緒。花恋さんだって、蓮くんを見れば気持ちが動く筈だ。 だって私なんだから。 蓮司さんには意固地になっても、蓮くんの話なら聞ける筈だ。 早くしないと花恋さん、今日大橋くんと会うって言ってた。昨日の様子だと、ひょっとしたら告白を受けてしまうかもしれない。 そうなったらもう、どうすることも出来ない。 大橋くんには申し訳ないけど、私は蓮くんと同じ未来を生きていきたい。 そう思い花恋の家へと戻ったのだが、肝心の花恋は既にいなかった。 玄関先で頭を抱え、恨めしそうに恋がつぶやく。「……私ってばさ、いつも肝心な時にこうなんだよね。詰めが甘いって言うか」「そういう所、確かにあるかもね」「ひどーい。こういう時はちゃんと慰めてよー」「ごめんごめん。それで? 花恋さん、どこで会うって言ってたのかな。今から行けば、まだ間に合うかも」「……聞いてませんです、はい」「なるほど。流石は恋だね」「ううっ……自分のことながら情けない」「まあ、行っちゃったものは仕方ないよ。終わったことを悔いるより、次の手を考えた方がいいと思う」「こうなっちゃうと、蓮くんの方がポジティブになるって言うか、ほんと……蓮くんのそういうところ、私も見習わないとね」「僕は僕に出来ることを考えるだけだよ。先に説得したかった花恋さんはいなかった。ひょっとしたら花恋さん、大橋くんの告白を
指名された蓮司〈れんじ〉は、落ち着きなく頭を掻きながら立ち上がった。「僕は、その……漱石がこの国のことを、本当に愛してたんだと思いました」 囁くような声でそう言うと、あちこちから失笑が漏れた。 思春期の彼らにとって、人前で「愛」を口にすること自体が、恥ずかしい以外の何物でもなかったからだ。「こらこら、人の発言を笑わないように」 微妙な空気を察したのか、少し真面目な顔で教師が諫める。「それで? 黒木は何をもってそう思ったのかな」「……言葉、言葉からです」「言葉……先生の妻に対する感情とか、友人に対する贖罪の気持ち、そういったことではなくて」「は、はい……勿論物語の流れとして、そういう所もしっかり描かれていて、凄いと思います。それに、その……大橋くんが言ったように、死に対する憧れを、漱石自身も持っていたと思います」「でも違うと。言葉とは、どういう意味だろう」「うまく表現出来ないのですが、僕はこの作品に、物語としての魅力はそんなに感じてません。色んな感情が交錯しあう様子、それは見事だと思います。でも結局のところ、行きつく先が死というのは、寂しいですし哀しいです」「なるほど……そうですね、これも確かな意見です。ある意味殉死という言葉に惑わされて、死への憧れを持ってほしくないと、私も思います。 それで黒木、言葉についての君の考え、聞かせてもらえるかな」「……言葉が美しい、そう感じました。どこを読んでも、どこに触れても……日本語って、こんなに美しいんだって改めて思いました。漱石がどういう意図でこの物語を書いたのかは分かりませんが、僕はこの作品から、漱石の日本を愛している気持ち、そしてそれが読者にも伝わって欲しい、そういった強い意志を感じました。この国に生まれたことを誇りに思おう、この言語に辿り着いた先人に感謝し